昭和57年1月7日   朝の御理解

                    
x  御理解第3節                    
 「天地金乃神と申す事は天地の間に氏子居っておかげを知らず神仏の宮寺氏子の家宅皆神の地所其理知らず方角日柄ばかり見て無礼致し前々の巡り合せで難を受け居る今般生神金光大神を差向け願ふ氏子におかげを授け理解申して聞かせ末々繁昌致す事氏子ありての神神ありての氏子上下立つやうに致す」


 願う氏子におかげを授けとある。これは親が子供に無条件でおやつを与えるようなものぢゃないでしょうかね。神様の本当の願いと言うのは理解申して聞かせ末々迄繁昌致す事ね。氏子ありての神神ありての氏子上下立やうに致すと言う所だと思うんですよね。
 だからいつまでもおやつだけでを金光教の信心だと、おかげだけを金光教の信心だと思い違えてる人が沢山あります。末々親に掛り子に掛りあいよかけよで立ち行く」と仰せられますように神様自体も氏子に掛って助かろうとなさっておられると言う事ですね。
 上下立つやうに致す、こう言う表現で教えをしておる宗教はまずないでしょうね。第一願う氏子におかげを授け、もうそこには条件がないです。願う氏子におかげを授けと丁度子供におやつを与えるような、でそこから段々理解申して聞かせと段々育っていく手立てを教えて下さり人間のいわゆる幸福になっていく道を説いて下さるのですから、その道を行ずる事になると結論としていわゆる親に掛り子に掛りとこうね。あいよかけよでとか、上下立つやうに致すと言うその上下立つやうな、親も助かり神様も助かり氏子も助かると言うあり方になってこなければならない事が分かりますよね。
 だからいつもただおやつだけをせびるといったような、おかげだけせびるような信心がいつまでも続いては金光教の信心に悖る事になります。
 二三日前でしたか、先だってから名古屋からお参りになる、もうそれこそまあ手紙の中にね。武者修行して回ってからでも真の信心が分かりたいと言う様な熱意を持った方です。もう長い長い手紙をなかなか文章も筆も立つ方のようです。自分の信心の生い立ちからずっといろいろおかげを頂いてきて助かられて今日、そして真の信心真の信心とこう求め続けておるけれどもそれが分からん。
 それをたまたま合楽の事があいよかけよの御本ね信徒会から出ております御本にで合楽の事を見て、もうそれこそ三代金光様と私とがこう合わせ鏡のようにひとつになっておるものを感じたと、それから矢も楯もたまらんで合楽に見えられて一晩泊まりでまあ色々、竹内先生がお話をしたんでしょう。竹内先生宛てにもうほんのわずかな日数ですけれどもその喜びをね。いわゆる合楽で言われる実験実証させて頂いておる事を便りにしておられる。
 今度は今まで過去においてもうどこに御比礼の立つ教会、どこに素晴らしい先生がおられると言う所を尋ね歩かれて、そこの御本とかいろんな教えをまとめた本やらをいっぱい大事にこう表紙をきれいに張ってね。それももうそれこそまあ何回も何回も熟読されたのぢゃなかろうかと思う様なその御本を全部ここへ送ってこられました。そしてまあ合楽の信心によって、初めてこう真の信心が分かって行く喜びをね。その中にこう言う尊い信心、こりゃ合楽の事ぢゃない金光教の信心と言うものが自分がない命を助けられて、この方ずっとまあおかげを頂いてこられたと言う事がまあこんなにも有難い尊い信心はないと言うふうに言うておられるわけです。
 ですからね。只奇跡的なおかげを頂いた、御利益を受けたと言うだけならば、もう金光教だけぢゃなくてもいいわけでしょうね。何様でもまあ言うなら奇跡的に助けて頂いた。おかげを頂いたと言う、それだけが尊いのではない。それまあお手紙の中にもございましたが、三代金光様の御時代に金光様を御本部にお参りをして、朝のお出ましを拝ませて頂く感激とか感動をああいう、例えばまあ本当にこの世の中に、もう人間としてこのような御修行なさった方はあるまいと思われるような三代金光様、七十年間と言うあの御神勤の御様子やら、それをまのあたりに私共は拝んでおる、この方もやっぱそうなんですね。 そこにもう金光教の信心が尊いものだと言うふうにこう私共が感じておったし、感じておられるわけですよね。又あらたかな御利益を頂く、おかげを頂くと言う事もそうである。
 そいで私そん時いつも修行生の先生方にこの尊い、もうこんな尊い宗教はないと言うのが只助けて頂いたからとか、また三代金光様のような方がそのお取次ぎが頂けるとか言ったような事だけが尊いだけではないが、どう言う事が金光教の信心の素晴らしい所かいわば尊い所かと、これは私自身が思うておった事でしたけれども、第一ね金光教の信心は迷信を言わないと言う事ね。ここにも出てまいりますように、日柄方位ばかり見てとかね。と言う様にここにも仰っしゃっとられますようにもう全然この日柄方位を言わない。
 言うなら教えの全てが人間万物の霊長として合点のいく教えばかりである。昨日石田先生とちよっとしばらくお話をする時間がございましたが、もう兎に角この御理解百節を読まれた時にこういう素晴らしい教えをもった宗教があるだろうかと感じられたと言う事です。昨日お話を聞き賜りましたが、もうあらゆる宗教をやっぱり勉強なさっとられるですね。仏教とかキリスト教だけぢゃない、ヒンズ-教あたりまでも研究しとられるわけです。 
 そしてこの教祖のいわゆるこの教典の御理解百節に触れた時に素晴らしい教えだとまあ、いうならば尊い教えだという事を感じられたとこう言うわけですがね。いわゆる普遍性に富んでおると言う事です。そりゃ皆さんもね、ちょっとそりゃおかしいなあと言う所がないわけですね。例えば酒は飲んではいけないよ。肉類は食べたらいけないよと言ったような所がないわけ、人間が人間らしう生きる手立てと言う様なものがですね。まあそれをいよいよつまびらかにして言ってるのが、合楽理念だと思うのですけれども。      普遍性に富んだ御教え、日柄方位を言わない。それからもう一つはあのおかげとお供物はつきものぢゃないね。いくらあげなけれは拝んでもらえないと言う事がない。いくらお金を納めねばならんと言う事がない。これも金光教の特異性であるし、まあ尊いと言うならばそう言う所ぢゃない。この方は銭金で拝まんと仰せられるような所に尊さを感じておったわけでありますが、同時になら助けられたとか、おかげを受けたと言う事がありまして、いわゆる金光教の信心はいよいよ尊いとまあ私どもは思うてきた、その方も手紙の中でそれを書いておられます。その尊いと思うておる信心の神髄は真の信心にありと言うので、その真の信心を求めに求め続けていかれるけれども与えてくれるものがなかったね。
 いわゆる求道である。いわゆる道を極めていこう、教えをいよい深く広く分からせてもらおうとすると、そこにはそう言う教えを説いてくれる人がなかったと言うのです。私本当にそのまあそん時も申しました事でしたけれども金光様の御信心と言うのは結局合楽理念によらなければ本当の尊さは分からんのぢゃないだろうか。
 今まで私共は過去に置いて金光様の信心は尊い三代金光様のあの御様子を拝ませてもろうて、こんな素晴らしい宗教家があるだろうか。こう言う生神様のような御方の御取次が頂けると言う事は何と有難い事かだけであったのですけれどもね。合楽理念によって初めて本当の金光教の信心の深化、それをここでは開闢以来とかね。前代未聞とか宗教以前の宗教と言うふうに、まあいわゆるお道の信心が十全の教えであると言う事をこう説くわけです。 
 そう言うなら宗教がないからです。過去に置いて十全ぢゃないのですね。人間が人間らしゅう幸福になっていけれるあり方と言う事ではない。もうそれこそまあ人間普通生身をもった人間ではとても出けそうにもないような、仏教とキリスト教で言うなら、五戒とか十戒とか言う、いかめしいそのまあ掟と言うかね。
 そう言う戒律があってなかなか私共が幸福になっていける道を阻んでしまっておる。それでもそれに行じようとすると結局破戒する他ないような所に追い込まれていくのが過去の宗教であった。金光大神の場合はそうではないでしょうが、容易いです。まず願う氏子におかげを授けと仰せられる。おやつが頂けるのです。
 はう金光様ちゃあらたかだとこう、ならあらたかだけで終わるとするなら、だからこれはまあこんな言うならば親に悲しい思いをさせる事はないのです。いつまっでんおやつばかりで育てんならんち言うならね。それこそおやつぢゃない、むしろ親に喜んでもらおうと言うような信心。そこからあいよかけよと言うね。親に掛り子に掛りね、親が子供を育てる、その育てた子供がこんだ親を見てくれると言ったようなシステムと言うかね。
 金光教の信心はそう言うひとつの段階と言うものをおうて、そしてここにも初めにありますようにね。天地の間に居って天地の大恩を知らない、その大恩が分かるにつれていわゆる迷信的な今まで言われてきたね。日柄方位と言ったような、こりゃ日柄方位だけぢゃありません。一番ここで大切に分からなければならない事はね。
 氏子の家宅とか神仏の宮寺皆、宅は全部神の地所と仰っしゃっとられるところなんかね。これは自分の物のように思うておるけども、自分の物と言うのは打ち振ったってないんだぞと。例えば指で押しただけでも天地金乃神様の御地所であるぞと言う所などが分かってまいりますとね、素晴らしいです。
 だから言うならば全ての事やら物やらを大切にしなけれはならない。御物として頂かなければならない、又事柄でも合楽では御事柄として頂かなきゃならないと言うふうにまあ申しますがね。こう言う前代未聞の宗教。宗教以前の宗教と言われるその元手の所がそこ辺に説いてある。また感じ取らせて頂かなきゃならんとこだと思うんですね。そう言う事が、ならおかげを受けて理解申して聞かせてと仰せられる。その理解を頂くようになって信心がこう育って行くのです。おかげぢゃない、おかげ、おかげぢゃないね。 
 言うならば神願成就の為に一切の事がね。言うならば憎うてこの手が当てらりょかと言うようにです。様々な問題・難儀はあるけれども、その全てがね神愛であるね。岡東教会の高橋先生といやあ、もう教学の大家であんなさいますが、高橋先生が合楽の読物を読まれて合楽の素晴らしいのはもう一切が神愛と言い切っておるところだと言っておられます。
 そうですね。そこに渕上先生があちらへ参ります。いつも参りましてもうおかげを受けておるんです。合楽ではもう一切が神愛と言い切っておる所だから、そのそれが分かる為にはです。私共が日々様々な事柄の中から実験し実証し成程無駄な事はないなあ。一切があんな、いまわしいとか困ったとか悲しいとかと思うておった事柄も一切が神愛であったと分からしてもらうと言う所からね。同時に言うならばね、日柄方位的な、言うなら迷信をいよいよ言わんですむおかげが頂かれるのです。
 私は昨日矢次さんの告別式をここでもう本当にあのーいつもの事ながら恐れいってしまうんですけれども、私共夫婦は玉串だけ、御供えさしてもらって、若先生が奉仕いたしましたが、若先生が一番口、もう僕は今度の霊祭をいつもの事ながら、もう本当にあの新館にいっぱい補助椅子が出てましたが、補助椅子ももう一脚も余らずきちっとした事でした。もう合楽の信者さん方が、それこそ口に言われる。一人一人が合楽教会の信者としての責任においてと言ったようなものを、今日参拝しとられる信者さんが中から感じたと言っておりました。あの方は皆さんもご承知のようにあんまり横のつながりと言うものはあんまりなかったんですよね。
 それでもやっぱあれだけ沢山の人が告別式に参加された。z『私昨日の朝お夢の中に矢次さんがこの大地をね。子供ん時にこうここで遊ぶ陣取りのような遊びがあるでしょう、こうきれいに手できれいにしてね。大地にそこに字を書いとられるんです。そして親先生あの桔梗の梗と言う字はどげな字でしたかねと言うて私に尋ねとられるとこを頂いたです』
 桔梗と言う花の事です。そいでそれを話しとりましたから、若先生が字引ですぐに引いたそうです。そしたら新しく生まれ変わると言う事だそうですね。それを聞きましてから、尚更思うたんですけども、例えばたいした、なら合楽理念に基づいた生活しとられたとは思えませんけれども、やはり何とはなしに合楽に長年縁を頂いて稽古しとられるうちに尋ね尋ねしながらでも合楽世界を求めて行かれるなあと言うもの感じたですね。
 合楽世界での絶対と言うもをやはりいつのまにか分かっておられる。そこでふんならこの世では合楽世界、合楽教会に御縁は頂いとったけれども、なら合楽世界に住んでおると言うほどしのものではなかったろうけれどもね。これからは合楽世界をめざさして頂いてそれこそ道を尋ね尋ねしながらでも、まあおかげを受けていかれる霊だなあと言うふうに思いました。
 もう本当にこれはまあ毎日の事ですけども一分一厘間違いのない。私はあちらで玉串をお供えして、そしてこちらへ立たして頂いて三時から池田先生の御主人の十五年の式年がありますので、おりて準備しようと思うてちょっと御結界へ着かせて頂いた間に十四、五人位の次々とお参りなった方が、もう私がおらんと困ると言う方ばっかりでした。                         そいが御取次させて頂いて、着替えに裏に下がらせて頂きましたら、近見市長が見えとると言うのです。ああそんならば、応接間はあっちで使っておりますからふんなここでち言うて。まあ、あちらでお茶を一服差し上げて、私はもう教衣を着けてこうしとりましたが、もうゆっくりされんわけですよね。お茶を頂いただけで、又あの出直しますからと言うて、まあゆっくりしてもらうなら困る、こっちも時間が三時からですから。そいで帰られて送り出させて頂いてすぐにまあお祭りにかからせて頂いたですが。
 もう昨日は行橋支部の共励会でもございましたから、先生方もたくさんあっちこっち色々な御用でしとりますけども、もうそう言う様々な事があった中にひとつもテンヤワンヤと言うのがないですね。実にこうスム-ズなね。そのおかげの中に昨日一日過ごさせて頂いたんですけれども、その池田先生所の霊祭の時に御神前で頂いたのがね、今はどうか知りません。z『豆腐売りさんなんかラッパを吹くです。あれが豆腐と言うあれを何か角笛ふうに頂いて、それがいかにも何か素晴らしいリズムがもう流れて来ておるような感じなんです』御心眼に頂いたのは。                   そして次の連想ですね。させて頂いたのは、ハハアー豆腐ということはそれこそあのー豆腐は四角と言いますように几帳面なんです。それでいて柔らかい。そう言うものを感じましてね。成程池田先生がああして几帳面な信心をさして頂いておるから霊様もこう言う几帳面なおかげを受けていっておられるなあ。いわゆる真四角な性格な霊様の助かりを受けておられるなあ。
 霊神様の前で御挨拶をさせて頂く時に頂きますのが、z『もうそれこそ何か映画の画面を見るようにはっきり頂いたんですが、もう一艘の小船がもう波が高くて、もうこんなに揺れ動いてるんです。それに二人、昨日二柱の霊様でしたが、二人が誰か分からないけれども乗っておられるのです。それでいてね、もう今にも沈みそうにもあるのだけども中に、もうそれこそ悠々として乗っておられると言う所でした。そしてちっと離れた所に親船があるです。その親船に向って進んでおるけれども、もう今にもこの小船が沈みそうにもあるけれども悠々としておられる、と言う事はハハアーこの霊達は泳ぎを心得ておるなあと言う事でした』
 例え船がひっくり返っても泳げるのだから、しかも親船はもうすぐ側だから、あそこまで泳ぎつくのはわけないと言う事だと言うふうな所にひとつももう不安とかあわてていないわけなんですね。そう言う私霊だとね。言うならば、泳ぎを心得、霊ながらも合楽理念に基づいて言うならば、なら皆さんの場合でもそうですね。
 合楽理念に基づいて日々どんな場合であっても、有難いでいく、いやどんな場合であっても心は安らいでおる、安心しておれる。いよいよの時には親先生がござるからと言ったようなものがあるでしょうが。なからなけれは合楽に御縁頂いとる値打ちはないですね。 昨日のそん霊もやはりそう言うおかげを受けておる霊であるなあ。そして落ちるはずないのにね。玉子がピラミッド形にこうやってお供えしてあったのが、一番下の角のつが落ちてから割れとるです。これ実際ですよね。そこで私思たんですけど、ここでは生玉子を皆さん霊様にお供えなさいますね。霊様が元気づくように、誰かそう言うお知らせを頂いて以来皆その卵をお供え致します、霊様に。  ところが昨日の池田先生所の霊様はもうわざわざ特別生玉子を食べんでん、すすらんでんね。元気はありますと言う様な感じで私はそれを受けたんですけどね。あら御無礼が出来たと言ったようなものぢゃなくて、ハハアー今日の霊様はもう生玉子やら頂きなさらんでもよかばいなあと言ったような感じでした。
 そう言う例えば、なら矢次さんの告別式と言い、昨日の池田先生所の霊祭と言い、その霊達が助かっておるのは、今日のこの御理解第三節ぢゃないけども、それこそ過去の過去と言うが、どんな言うならば大きな宗教であってもこう言う表現で教えを説いておると言うのがない。                         又同時に金光教の信心が尊い有難いと言う事が今申しました、あの普遍性に富んでおるとかね。三代金光様が素晴らしかったからとかね、迷信を言わないからと、又その金銭の要求なんかをしない宗教だから尊いと言うだけではなくて、もう本当に合楽世界に直結でける教えと言うものが合楽においては説かれておると言う事です。 それを例えば本当言うたら今日の御理解をもっと詳しく皆さんに聞いて頂いてですね。この御理解第三節と言う、この御理解一つだけでも、言うならば金光教の信心が秀れておると言うか、素晴らしいと言う、もう他に類を見ない宗教であると言う事が分かる程しの事であり、私共人間が助かられるだけぢゃなくて霊の世界にまでそう言う働きを起こせれる、頂けれる信心だと言う事。
 皆さんが有難いなあとこう思う。特に合楽に御縁を頂いて、なら合楽理念を勉強さして頂いておる皆さんにしてはです。もう本当にこんな尊い事はないと分からさして頂いたら、そんならばいうならば、おやつだけを願うと言う信心からね。親に掛り子に掛り、子に掛り親に掛り、あいよかけよでね。
 いわゆる神様からおねだりするだけぢゃなくて、神様にも喜んで頂くような信心にも、又ならせて頂こうと言ったようなね。おかげを頂かせてもらう。寒修行始まった。一ケ月間もうお参りし抜こうと皆さん思うておられるだろうと思う。だからそのお参りなさる修行なさる焦点がどこに置いてあるか。
 昨日秋永嘉朗さんのお得意さんと言う方がお参りをして見えました。嘉朗さんが先日見えましてから、合楽では今度来年の教祖百年祭に千人参りを思い立っておられますね。どうぞここでもあの、お爺さんお参りになりませんかと言うて勧めて下さった。
 信心はないですけども、ふんならいっちょ百年祭の時には御本部で夫婦でお参りしましょうと言うて約束して言って下さったと言う御届けを聞いてです。私は思うたです。ほう皆さんがもう来年の千人参りの事をどこに行ってもそれを話しておられる。
 これは一昨日の壮年会の時でした。正義先生が皆さんに発表聞いておりましたら、本当に例えば合楽でね。百人の信者がおるなら百人の信者がね。十人ずつの御導きをさせて頂いたら十人出けます。難しい事ぢゃない。まず自分の家族中で参ろうと思いなさい。そして私も今自分の周囲にもう何人もの人にお話をしてお参りして頂くように、もうお話をしとると言う話を致しました。
 来年は百年祭をめざして又今年は合楽十五年の祈念のお祭に対してです。その事がいよいよ有難い事に成就していく事の為に、この例えば寒修行が出けたらひとまわり大きい信心にもならせて頂く事になるのですから、神様が喜んで下さると思うですね。
 こんなおかげを頂かなんから一ケ月頑張って参ろうと言う、小さい自分のおやつだけを頂こうと言ったような信心からね。少しはましな信心にこう広がっていく、大きくなっていくね。まあ今日のこの御理解三節と言うのは実を言うたら、もうきりがないんです。
 一番はじめのね。天地金乃神と申す事はと言う所あたりから、説くなら非常に素晴らしい御理解なんですけれど、もう今日私は霊肉共に霊の世界の事、又霊になられた方達が合楽の雰囲気に当てただけで、合楽の世界を求め求めしていけれるような内容をもっているんだ。金光教の信心は尊いんだ、有難いんだと言うが、なら皆さんはどこまでが尊いと思うておるか有難いと思うておるかね。
 お願いをしてこげなおかげを頂いたから、だけではなくてです。根本的な金光大神の教えの言わば、親に掛り子に掛りと言ったようなあいよかけよの精神が育っていくという様なね所にね。尊いと言うものが感じられる、分かる信心を頂いてもらいたい。そして言うならこの寒修行にかけてです。
 十五年の記念祭の事をお願いなさい。百年祭の事を願いなさいと言うのぢゃないです。そう願わずにおれない信心を願えと言うわけであります。「どうぞ」